明治から昭和初期の長岡駅周り、スタンフォード大の地図から。

昔の長岡市、長岡駅周りはどうだったのでしょう。

アメリカのスタンフォード大学が昔の日本地図を公開しています。(測量は1888年)

そこから抜き出したのが下記(※大学は地図の利用を許可しています。)


 

興味深いでしょ^^

左上から、

商業高校はずっとこの場所でしたよね。水道町。

一つの文化があったよな、ここに。

高女高と女師校は知りません、大手高校と長岡女子高の先祖でしょうか?

・・・・・と書いていましたら、コメントをいただきました。

「高女は今の大手高校で、昔は東神田にありました。女子師範学校が今の新潟大学の教育学部の前身です。戦前から付属があったそうです。」

概ねこういう内容でした。

素晴らしい、新大は教育学部も工学部もみんな新潟市に行きました。

でも新潟大学付属幼稚園・小学校・中学校は今も長岡市にあります。

校長先生は新潟大学の教授、女性です。女子師範学校の系譜そのものですよね。

つまり、私たちはとかく「日本は敗戦によってがらりと生まれ変わって民主主義国家になった」なんて思いこんでいますが。

今の長岡市を構成する大事なものは戦前から今日まで繋がっているものであり、民主主義も知っていられる方は多いと思いますが、しっかり太平洋戦争が始まる前から日本は民主主義国家で選挙が行われていました。

1925年に25歳以上の男子全員に選挙権が与えられていました。(勝取ったものではないですが)

日本は戦前からとっくに民主主義国家だったのです。

ただし、女性の参政権は戦後からです。

横道にそれましたが、貴重な戦前から続く長岡市を教えて頂いた「KY」様、大変ありがとうございました。

 

話しは戻ります・・・

公会堂は厚生会館ですよね、すぐ隣の「文」は阪之上小学校でしょうか。

大きな二重丸は長岡市役所ですよね。

アオーレ長岡は近くに戻ってきたのです。

中学校は長岡高校ですね。

井上円了も山本五十六も半藤一利も半藤末利子もここの卒業です。

高工校は後の新潟大学工学部かと。

長岡に技術の大学を、が、長岡技術科学大学の誕生に繋がっています。

その左の「工業校」は長岡工業高校、ここも県内屈指の技術の高校。

今の南中学校の場所ですね。

油田発見・掘削技術発展から長岡市は日本屈指の技術の市だったのです。

新川はまだ痕跡を残していますね(柿川が信濃川とショートカットする場所、今のウオロク近辺)

 

このエントリーをはてなブックマークに追加

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA